2017年04月16日

最近の話(2017/04/16)

大学に卒業文集なるものがあったとしたら、きっとこんなことを書いたんだろうと思いながら、今しか書けない気がする現在の心境をつらつらと、近況報告的な意味も込めて書いています。

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・今、何をしているのか?
こういう類の文章で前置きとか書くのはすごく苦手なので、単刀直入に今現在の状況を説明すれば…

3月に某大学法学部を無事卒業し、親元を離れ、新社会人として働き始めている。
何の仕事をしているのかというと、実は農業をやっている。

…という感じになります。
法学部卒で農業だなんて、まあ驚かない人の方が珍しいわけですが、エイプリルフールからは既に半月以上経ってますし本当です。

私が農業をやっていると言えば、次に相手から返ってくる言葉は「なぜに農業?」に決まっています。実際かなり聞かれました。話せば長く面倒臭くなりそうなので、その都度「他にやりたいことがなかったから」みたいな感じで返していたのですが、自分の中でも整理しきれていない部分があるので、この場に書きながら整理します。

・自分は何をしたいのか?
「他にやりたいことがなかったから」というのは、適当に返す言葉として非常に便利ですが、あながち間違ってもいません。

私が通っていた大学では3年の夏ぐらいから就職ガイダンスのようなものが開かれる仕組みになっていて、その時から業界研究だの面接対策だのインターンシップがどうのだのとありがたいお話を聞く機会が多くありました。その度に今後の人生を真剣に考え、就職活動解禁までにはある程度方向性が決まるだろうと踏んでいました。しかし思うように将来像を描くことができず、ただ時間だけが流れるという日々が続いていきました。

やがて三年の学年末試験が終わり、すぐに就職活動解禁の時期を迎え、就活サイトからは毎日迷惑メールのごとく合同会社説明会のお知らせが届き、さすがにそのまま何もしないのもいかがなものかと思い、少しは興味がある業界の会社説明から、あまり興味がない業界の会社説明まで、いくつか聞きに行ってみたりはしました。しかし、こういう会社には入りたくないというネガティブリストは出来上がったものの、特別こういうところで働いてみたいというのは結局見えてきませんでした。

そうなればネガティブリストに入っていない会社を数撃ちゃ当たるで受けてみて、当たったら入社みたいな感じでいけば…とも少しは考えたのですが、そういうエネルギーはあまりわいてきませんでした。当然ながら履歴書やエントリーシートは受ける会社の数だけ書かなければならないですし、書く内容もそれぞれ変えていかなければならない部分もあり、下手な鉄砲を撃つにも一発一発がけっこう重いわけです。じゃあ本当に安い弾にしちゃえば?というのもありますが、あまり興味がない会社向けにそれっぽい内容の文章を安く組み立てるのも、自分に嘘をついているようで別の意味で辛く、結果として数打ちゃ当たる戦法はやめることにしました。

そして恥ずかしながら、結局自分は何をしたいのか?という振り出しに戻ってきてしまったのでした。そして、これまでの人生を振り返ってみたりもしました。

・夢はなかったのか?
幼稚園生ならニチアサのヒーロー、小学生ならスポーツ選手とかが将来の夢を聞かれた時の定番の答えです。もっとも、最近の小学生なんかはスポーツ選手じゃなくてYouTuberとか言うらしいですけど、それは置いておくとして、私も一応小さい頃は無邪気な夢を持っていました。

それはたしか小学校に入学してすぐくらいの時、私は同じクラスのいじめっ子に目を付けられていて、モノを隠されたりしました。私はそれまで誰かに嫌なことをされるという経験はなかったため、驚くとともにすごく悲しかったんだと思います。それで「学校行くとモノを隠されるから行かない」と言い出し、登校を拒否し始めたのでした。

一週間くらいそれが続いたんじゃないかと記憶しています。ずっと泣いてたとかではなく、家では元気に過ごしていたと思います。テレビで「がんこちゃん」を見た記憶はあります。当時は小学校に入ったばかりなので、義務教育が云々みたいなこともよくわからず、学校に通わないことによる嫌悪感みたいなものはなかったはずです。ただ、日に日に両親からの「学校行こう」の圧力が増してきて、「心配させちゃってるのかな…?」みたいな感情は徐々に芽生えたと思います。しかしながら、学校に行かなければモノを隠される心配はないという非常に合理的な思考を小学生ながらにして思いついて実践してしまった私は、親に責められても「不登校になったのはモノを隠すヤツのせい」みたいな思考のままでしたし、自分が責められることについてあまり納得はしていませんでした。

その新一年生にとっては長い一週間の不登校が終わるきっかけとなったのは、夜中の父親との会話でした。夜中と言っても当時小学生なので、たぶん10時とかでもすごく夜遅く感じたはずなのでそのぐらいの時間だったのでしょうが、「まあここに座れ」みたいな感じだったかと思います。ついに本格的に説教されるのかな…みたいなことを小学生ながら覚悟したわけですが、お菓子が出てきて驚きました。リラックスさせたかったのでしょう。そしてここからやっと話が繋がります。

リラックスムードの中、将来の夢を問われました。私はどういう意図の質問なんだろうとかそんなことは一切考えず、少し悩んでから「おもちゃ屋さんになりたい」と言いました。

で、これが完全に誘導尋問だったわけですが、じゃあ算数ができないといけないね、国語ができないといけないねでうまいこと罠(?)にはめられ、学校に行くことの必要性を自覚したのでした。でも結局翌日も学校行きたくないとか言って、それを見かねて母親が「学校行ったらご褒美あげる」みたいなことを言って、最終的にはそれが決め手で学校へ再び行くようにはなったんですけどね。ガキはご褒美に弱いわけです。笑(このくだり必要だったのか…?)

…蛇足はともかく、私が将来の夢を語ったのは、記憶にある限りこれが初めてです。

今おもちゃ屋さんやりたいかと言われると、少子高齢化の中で現実味があまり…みたいな話にはなりますが、【おもちゃ=ガジェット=大人のおもちゃ】みたいな曲解をすると、このブログのレビュー記事のリンクからモノが買われていって、ほんの少しだけ私の懐に入ってくるシステムを運用しているあたりは、小学生の時の夢を叶えてしまっている…かもしれませんね。(ただ、現状お小遣い稼ぎにもならないレベルだし、これ以上稼げるとも思っていないし、趣味でやってる部分は非常に大きいので、某キャッチコピー「好きなことで、行きていく」みたいなことを考えたことは一度たりともありません。)

その後は将来の夢を聞かれた時に、漠然と「デザイナー(何の?)。」とか「会社員。」とか言ってた気がします。「おもちゃ屋さんやりたいー!」とか言うのがちょっとダサくなってきた年頃から、そういうそれっぽい返答をすればいいとわかって、そうやって適当に答えているうちに、次第に将来のことをあまり考えない人間が出来上がっていったのだと思います。

・生きる上での指標を作り上げた高校生活
変化が起きたのは高校受験でした。私は地元のそこそこ頭のいい公立高校を「まあなんだかんだで受かるだろう」という気持ちで受験しました。そして、前期・後期の二回受験するも失敗し、滑り止めで受けていた某私立高校に通うことになりました。その私立高校には県内有数の実力を誇る自転車競技部があって、「もし公立で落ちたら吹っ切れてガチで自転車やろう」と思っていたところ、見事に落ちてしまったのでガチで自転車をやり始めました。

私は親の影響で小さい頃から自転車には乗っていたのですが、本格的に競技を行うというよりは趣味性の部分が多くありました。とくに、一緒に走る相手は親だけで、他の同年代の人と一緒に練習をするという機会はありませんでした。競技部に入部してからは共通の趣味を持つ仲間とすぐに打ち解け、お互いに切磋琢磨するという、今までは考えられなかった世界が一気に広がり、私の行動範囲や考え方は大きく変わっていきました。最近周りからよく「アクティブすぎる」と指摘されるのですが、地図を見て「この通りをここで曲がってしばらく行けばとりあえずあそこに着ける!」(ただし距離は度外視)みたいな距離感覚は、確実に自転車競技部という”異質な空間”で育ってしまったものだと断言できます。…自転車で10kmとかでも普通の人にとっては既に頭おかしい距離なんですよね。

その頭おかしい距離感覚の形成を急激に成長させたのが、”自転車通学”と称した事実上の朝練でした。高校は千葉市にあったのですが、三郷とか浦安とかその辺から自転車通学してくる先輩方が普通にいて、それにつられて私も船橋から雨が降らない限りは基本的に自転車通学をしていました。片道だいたい25kmとかだったかと思います。そしてこの自転車通学によって地足が鍛えられ、私はあまり運動ができる方ではなかったのですが、部の厳しい練習にもそれなりについていけるようになっていきました。

そして自転車通学には地足の向上という側面以外にも得られるものがありました。それが、頭で考えながら体を動かすという能力です。

当然ながら長距離の自転車通学には相応のリスクが存在します。自転車と車という異なる速度域の乗り物が同じ空間にあれば、どちらか一方の不注意一つで重大な事故が発生しかねません。実際のところ、私も何度か危ない目に遭いそうになったことがあります。大抵は相手の責任が非常に大きいのですが、とはいえ、いくら相手が悪かろうと私が事故に遭って死んでしまったりでもしたら、責任云々の話にはなりません。それはもう取り返しのつかないことです。「そうなる前に」と私は、どうすれば安全を確保しつつも速く走ることができるかを常に考えながら走っていました。そして次第に、「周りの車を見てその人がこれからどのように行動するつもりなのかを推測すれば安心して走れる」ということがわかっていきました。

それがわかってから、この能力は自転車で安全に走るためだけでなく、もっといろんなことに応用できるなと気づき、日常生活にもこの考え方を取り入れるようになりました。そうすると思いの外「気が利く」とか言われて感謝されるようになり、そこから私は「お互いの意図や考え方を推測・理解し、尊敬し合うことができれば、世の中はきっとうまい方向に進む」と考えるようになりました。

ちょうどその頃、未曾有の大震災は起こりました。東日本大震災です。高校一年生の学年末試験を終えた私は、気分転換のため自転車に乗っていました。「今日はなんだか風が強く吹いてるなー。電線の風のなびき方すごいなー。」とか思ったらそれが地震だったのです。揺れに気づきにくい状態だったのでしょう。これはまずいと思って家に帰る途中にも、地震の被害を受けた建物をいくつか見ました。家に帰れば、高く積んであった荷物が床に倒れかかっていたり、食器がいくつか割れていたりもしました。しかしそれが本当に小さなことに感じられるくらい、TVで報じられる東北の津波の被害の様子は非常に生々しいものがありました。連日の被害報道に私も居ても立っても居られない状態にはなりましたが、まずは自分のできる範囲から…と、世の中をうまい方向に進めるために自分ができる役割を考え続け、そこから得られたものを少しづつ実践していきました。

そしてその考えから「将来は行政の人間になって社会の役に立つ」という夢を持つようになりました。

高校生活も終わりに近づくにつれ、進路を考える時には夢を実現するため法学部のある大学を探し始めました。大学選びをするにあたっては、法学部を持つ有名な大学は都内にいくつもあるものの、「過度な都内一極集中は帰宅困難者を生む原因を作った」とか、「そもそも人口減少社会なのだから、むしろ人口分散が必要」という真面目な考察をした結果、千葉県内の大学に進学することを決め、実際に入学しました。…とか言いつつも一番の理由は「自転車通学できそうだから」だった気はします。(笑)

・半分迷走の大学生活
無事に希望していた大学に入学し、大学生活を始めました。行政の人間になるという夢を実現するため、日々これ努力…といきたかったのですが、迷走します。というのも、”行政の人間”とは一体なんぞやという壁にブチ当たってしまったのです。

とりあえずは真面目に授業を受けていればきっとわかってくるだろうと思って、そこには力を注ぎました。ただ、授業以外のところでの悩み(これこうなった)なども生じてきて、次第に「今やってることは本当に正しいのか?」と考えてしまうことも多くなってきて、あまり授業にも集中できなくなり、二年の時、ついにある授業で単位を落としてしまいました。

そうかと思えば「iOSアプリを作ってみたい」などと思いついたりして、全くの未経験からプログラミングに手を出し、一度挫折し、またもう一度手を出しまた挫折したりもしました。

この迷走の日々はなかなか厳しいものがありましたが、今思うと真面目に将来に向き合えた有益な時間だったのかなと前向きに捉えています。

その後は原点に戻り、焦りを抑えられるように将来のこととは少し距離を置くように努め、少しずつ自分を取り戻していきました。その結果、授業への熱も再び取り戻し、三年の学年末試験は過去最高の成績で終えることができました。しかし、その時にはもう「数週間後に就活解禁」という状況だったわけです。

・「ぼんやり考えていること」の集合体が夢だっていいじゃないか
さて、将来の夢というものを軸にここまでの人生を振り返ってみましたが、これを読んでどこがどう結びついて農業なのかは理解不能だと思います。書かない方がスマートだった気はしますが、論文とかと違って字数制限がないので、書いてしまった分を消す理由はないだろうととりあえず残しておくことにします。

ところで、”夢”ってなんなんでしょうか。

私が通っていた中学校の校長はなかなかいい話をする方で、「夢なき者に目標なし」「目標なき者に計画なし」みたいな話を学期始めに言っていて、それが今でも頭に染み付いています。これはたぶん、「夢があれば日々を有意義に暮らせるし、日々を大切に生きていれば夢に近づけるよ」って意味なんだと思うのですが、でもこれってけっこう残酷な話じゃないでしょうか。夢がなかったら人生は有意義に過ごせないのでしょうか。

変な話、私はこの言葉が引っかかって生きづらかったのでは?とさえ思っています。この論法で言えば、夢と目標はほぼイコールの関係にあると言えそうです。もし夢が漠然とし過ぎたものだったとしたら、「夢」の状態から「目標」の状態へと変換するのは非常に困難で、変換はそこで止まってしまいます。

私には「社会の役に立ちたい」というシンプルな漠然とした夢がありましたが、いくらなんでも漠然とし過ぎているし、世間一般的だし、目標への変換は不可能でした。ただ、ある時この校長の言葉を客観的に分析してみると、いくらなんでも夢を手段として捉え過ぎなのでは?と気づくことができて、だいぶ気持ちが楽になったのを覚えています。世間は手段的な夢を要求しがちです。もっと気楽でよかったはずです。

最近ようやく私の”夢”に対する認識が言語化できたので、ツイートを貼っておきます。



…相変わらずこれを読んでもわかりにくいですが、ぼんやりずっと考えていたものが蓄積されて、それがいざ現実のものになりそうだという時になってそれが目標となり、実現された時に初めて「これが夢だったんだ」と思うんだろうということを書いたつもりです。わけがわからないですね。

…まあ、そういうことです。(どういうことだ)

・おわりに
この文章を書いてみれば少しは頭の整理になるだろうとは思いましたが、自分語りの長文になるだけでした。ここまでちゃんと読んでくださった方にはお詫び申し上げます。申し訳ございません。

どうして農業なんかやるんだ…?という疑問については、もういっそ次の部分だけ読んでください。

大前提として、法学部生でも法律に全く関係のない分野に就職することは珍しくはありません。私の友人の中には介護職に就いた者もいます。

その上で…

郊外の人口流出は深刻です。
農業人口は減少しています。
私は満員電車が嫌いです。
できれば自由に自転車に乗れる場所に住みたいです。
→郊外の農業で働けば全部解決できるんじゃ?

…という思考回路だと思ってくれて結構です。これで納得するかどうかは別として。

あくまで仕事は仕事です。嫌なことがあっても仕事なら割り切れます。そこはどんな仕事に就いても同じなはずです。

私にはたまたま農業という選択肢があったというただそれだけの話です。とくに特別、農業がやりたいわけではありません。

ただ、きっとそのうち、私がここで働いてることで社会の役に立てているという実感が湧くタイミングが訪れるはずです。その時に「これが夢だったんだ」と思えれば、私はそれで満足するタイプの人間です。つまらないヤツだと思うかもしれないですが、そういうヤツなんです。

…まとまらないのでここで文章を終わりにします。
とりあえず今、私は頑張っています。元気にやってます。

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2016年12月31日

2016年振り返り

久々の更新です。大晦日ということで、2016年を振り返ります。

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さて、まずは元日に立てた2016年の目標を確認してみます。今年の私の目標は、「刻んでいく」ことでした。



はっきり言って、こういう目標の立て方は微妙です。というのも、目標というのは明確化されることによって達成されやすいものだからです。このような漠然としたものでは、具体的に何をすればいいのかわからず、いろいろと曖昧になってしまいがちです。

しかし、それでも敢えて漠然とした目標を選びました。それは以前、難し過ぎる目標を立てすぎて、自分を追い込み過ぎてしまったという反省に基づいたものです。あまりにも高い目標は、人生を苦しくしてしまうだけです。実現可能性というのも、目標の立て方として大切な部分です。

そんな「刻んでいく」という目標を立てた2016年でしたが、私は充分達成できたと思っています。

2017年3月に大学を卒業する予定で迎えた2016年、1月下旬の定期試験が終わると、すぐに就職活動の火蓋が切って落とされました。ご多分に漏れず、私も就職活動を始めたわけですが、私の場合は少し特殊な業界への就職を希望していて、一般的な就職活動スケジュールで動いた結果、空振りや門前払いを受けるという日々を過ごすことになりました。

周りの同級生達がバリバリに就職活動を進めている中、就職活動スケジュールの大幅な見直しを迫られた私は、とりあえずバイトでお金を貯めることを決意しました。希望している業界は、都市部から離れた位置に転居する必要があり、そのための資金はどのみち必要だったからです。

もちろん、足下もよくわからない状態で、先に貯金を稼がなくてはならないのはとても辛いものがありました。その上、恥ずかしながら今年までロクにアルバイトといったことをしたことがなく、何もかもが未経験という状態で飛び込んでいくのは正直とてもストレスでした。

それでも、慣れてくると集団内での自分の立ち位置であったり、取るべき役割であったりを考えられるだけの余裕は出てきて、だんだんと楽しいと思えるようになっていきました。アルバイトをしている間は就職活動のことも程よく忘れることができて、メンタル的な部分でも相当救われたと思っています。

その後、しばらくしてからバイト先をより働きやすい場所に変更し、勤務日数もうまく調整しながら貯金をコツコツと貯めていき、現在に至ります。同時並行で就職活動も進め、なんとか年内に就職先を決めることができてほっとしています。カレンダーの予定の埋まり具合もそうですが、それ以上に内容の濃い日々を「刻む」ことができたのではないかと思います。

さて、同じ「刻む」でも、実際に数字として表すことのできる結果を出せたものもあります。こちらは既に記事として書いています。

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不動峠ヒルクライムで自己ベスト更新(14分52秒)
http://tmo1201-blog.seesaa.net/article/441037035.html?1483173505


私が高校自転車部の(ほぼ)現役だった時のタイムを更新できたということを改めて思い返すと、非常に感慨深いものがあります。これといってトレーニングらしいトレーニングはできていませんが、雨が降っていなければバイト先に毎日自転車で通って距離をコツコツ「刻んだ」のがいい練習になっていたのかもしれません。

そのバイト先への通勤にも使っているGIANT MR4ですが、納車からおよそ二年半が経過しました。長年温めていたGIANT MR4の長期レビュー記事を書いてみたところ、予想外の多くの反響を頂きました。ありがとうございます。

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折り畳み機構と走りの楽しさを高次元で両立した究極の”小さな巨人”GIANT MR4納車二年経過レビュー(1)
http://tmo1201-blog.seesaa.net/article/441349627.html?1472123386
折り畳み機構と走りの楽しさを高次元で両立した究極の”小さな巨人”GIANT MR4納車二年経過レビュー(2)
http://tmo1201-blog.seesaa.net/article/442724273.html?1483173803


長期レビューの続編を書くにあたって、輪行性能と走行性能をもう一度確認する意味も込めた輪行の旅に出かけたいのですが、忙しくなかなか実現できていません。春までには完結させたいと思っているので、楽しみにされている方はもう少し待って頂けるとありがたいです。いずれにせよいい自転車ですので、GIANT MR4を検討しているというのであれば、2017年モデルももう出ていることですし、この際いっそ「買ってから読む」でもいいかと思います(笑)。後悔はしないはずです。



最後に、2016年はまもなく終了しますが、2017年も当ブログは「刻む」ように更新を続けていきます。完全に趣味のブログですが、たまには役に立つことも書かれている…かもしれません。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年04月05日

URLを貼らずにスクショだけでTwitterにシェアする場合の法的問題性とグレーゾーン

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スマートフォンの普及とSNSの台頭は、世の中の出来事を即座に”シェア”する新たな時代を創りだしました。その一方で、スマートフォンをごく当たり前に使う、所謂”スマホネイティブ世代”の間を中心に新たなシェア文化が定着しつつあります。それが、スマートフォンで閲覧しているWebサイトのスクリーンショットを、URLを明記せず、直接SNSに投稿するというものです。

言うまでも無く、SNSの情報スピードは非常に速いものです。中でもTwitterは他のSNSと比較して段違いに情報スピードが速く、ユーザーは投稿の迅速性、即時共感性、拡散可能性を求める傾向にあります。そのような環境において、URLを明記せずWebサイトのスクリーンショットのみを投稿するという新しい文化が生まれるのは、ある意味当然の成り行きとも言えるのかもしれません。

しかしながら、この新しい文化に対しては批判も多くあります。現在のWebサイトの多くは情報料が無料で、その運営の多くはWebサイトに設置されている広告による収益から成立しています。Web広告の収益は、そのWebサイトへのアクセス数によって決まっており、サイトへのアクセス数が多ければ多いほど、サイト運営者はより多くの広告収入を得ることができるようになっています。

そこに突如表れたスクリーンショットのみでシェアするという新しい文化は、誰か一人がそのWebサイトのスクリーンショットを撮影しSNSに投稿してしまえば、サイトへのアクセスを不要としながらも、広告を除いたコンテンツのみがサイト運営者のコントロール不能な状態で拡散してしまうという危険性を持ちます。この点がサイト運営者やライターを中心に問題視されていて、インターネット上での議論も散見されます。

私もTwitterで実際にこの問題について肌で感じ疑問を感じていたことから、この問題を大学に提出するレポートのテーマとしてまとめることにしました。(このブログ記事は既に大学に提出したレポートの内容を一部をブログ向けに再編集したものとなります。)

・Webサイトの著作物性
この問題を扱うにあたり、その議論の前提条件として、Webサイトにそもそも著作物性があるかが問題となります。著作権法2条1項1号は著作物の定義を、10条1項は著作物の例示について規定しています。

(定義)
第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一  著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

(著作物の例示)
第十条  この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
一  小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
二  音楽の著作物
三  舞踊又は無言劇の著作物
四  絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物
五  建築の著作物
六  地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
七  映画の著作物
八  写真の著作物
九  プログラムの著作物


Webサイトは、”思想又は感情を創作的に表現するもの”であるし、”文芸、学術、美術、音楽の範囲に属するもの”であるから、2条1項1号の規定により著作物性があると言えそうです。また、10条1項9号が規定しているプログラムの著作物としても捉えることが可能と言えそうです。

・スクリーンショットの法的性質
次に、スクリーンショットの法的性質について見ていきたいと思います。スクリーンショットの撮影は、Webサイトの内容をそのまま画像として保存する行為なので、30条1項の私的使用のための複製にあたると考えられます。

(私的使用のための複製)
第三十条  著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
一  公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合
二  技術的保護手段の回避(第二条第一項第二十号に規定する信号の除去若しくは改変(記録又は送信の方式の変換に伴う技術的な制約による除去又は改変を除く。)を行うこと又は同号に規定する特定の変換を必要とするよう変換された著作物、実演、レコード若しくは放送若しくは有線放送に係る音若しくは影像の復元(著作権等を有する者の意思に基づいて行われるものを除く。)を行うことにより、当該技術的保護手段によつて防止される行為を可能とし、又は当該技術的保護手段によつて抑止される行為の結果に障害を生じないようにすることをいう。第百二十条の二第一号及び第二号において同じ。)により可能となり、又はその結果に障害が生じないようになつた複製を、その事実を知りながら行う場合
三  著作権を侵害する自動公衆送信(国外で行われる自動公衆送信であつて、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものを含む。)を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、その事実を知りながら行う場合


ただし、複製はあくまでも私的使用に限定されるため、撮影したスクリーンショットをツイートすることはできません。

・スクリーンショットをTwitterにシェアする場合の法的要件
撮影したスクリーンショットをTwitterにシェアする場合、Webサイトを複製したスクリーンショットの使用範囲が”私的使用”よりも広い範囲で認められる必要があります。そこで、32条1項の”引用”を使います。

(引用)
第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
(出所の明示)
第四十八条  次の各号に掲げる場合には、当該各号に規定する著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない。
一  第三十二条、第三十三条第一項(同条第四項において準用する場合を含む。)、第三十三条の二第一項、第三十七条第一項、第四十二条又は第四十七条の規定により著作物を複製する場合
(罰則)
第百二十二条  第四十八条又は第百二条第二項の規定に違反した者は、五十万円以下の罰金に処する。


32条1項は、”公正な慣行に合致する”こと、”報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内”であることを引用の要件として規定しています。また、48条1号は著作物を複製引用する場合の引用元の著作物の出所を明示する義務を規定しており、明示しない場合は122条の規定から50万円以下の罰金の対象(!)となります。

つまり、WebサイトのスクリーンショットをTwitterにアップロードするためには…

”公正な慣行への合致”

”報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲”

”出所(URL)の明示”


という三つの要件が必要であるということです。その要件を満たした例が以下になります。

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WebサイトのスクリーンショットをTwitterにアップロードするときは、上のルールをちゃんと守ろうね。お兄ちゃんとの約束だよ!






・出所の明示方法についての隠された論点
ここまで、WebサイトのURLを明示せず、スクリーンショットのみをTwitterにシェアする場合の法的問題性について検証してきましたが、実は隠された論点があることに気づきました。

48条は引用に基づく著作物の複製の際にその著作物の出所を明示する義務を規定しており、著作物がWebサイトの場合はURLがそれにあたるというのは先述の通りですが、その明示方法については”その複製または利用の態様に応じ合理的と認められる方法および程度により、明示されなければならない”という非常に抽象的な文言に留まっているのがわかります。

そこで、下図のような例が問題となります。スマートフォンのブラウザの多くは、閲覧中のWebページのURLが画面内に表示され、スクリーンショットを撮影した場合にもURLが映り込む場合があります。この映り込んだURLをもって出所の明示として見なすことが可能かが隠された論点として挙げられます。

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・画像内出所明示に合理性はあるか?
なお、ここからは個人の意見が入ります。

出所の明示は、”その複製または利用の態様に応じ合理的と認められる方法および程度により、明示されなければならない”わけですが、スクリーンショット内に出所を明示する(以下これを「画像内出所明示」とします。)場合、これに合理性はあるのかが問題となります。

そこで、著作権法の目的規定である1条を参照すると、著作権法は著作権者の権利保護とそれによる文化の発展に寄与することを目的としていることがわかります。つまり、画像内出所明示が著作権者の保護とそれによる文化の発展に寄与するものであると認めることができなければ、合理性はないと言うことができます。

(目的)
第一条  この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。


まず、画像内出所明示は著作者の権利を保護できているかという点について検討していきます。

URLが画像内に表示されている場合、情報の受け手は直接そのページにアクセスすることができません。そのため、引用元のページへのアクセスを希望する場合、情報の受け手は画像内のURLをブラウザに打ち込むか、検索エンジンを利用するという一手間がかかってしまいます。そうなると、実際にわざわざ一手間をかけてまで引用元のWebページにアクセスする情報の受け手は、ごく少数になると考えられます。

これをヘタに利用すると、究極的には、引用元のWebページの自分の主張にとって都合の良い箇所だけをスクリーンショットで引用し、恣意的な主張に繋げることができるという危険性すらあるかもしれません。また、そのようなケースが仮に起こった場合に、Webサイトのコンテンツ作成者はエゴサーチによるヒアリングを行うことができず、コンテンツ作成者の意図しないミスリード等に対して、反論の機会を失ってしまうという問題点もあります。従って、画像内出所明示は著作者の権利保護を弱めるものであると言えます。

次に、画像内出所明示が文化の発展に寄与するものであるかという点について検討します。

Webサイトのスクリーンショットは、中身のコンテンツを画像一枚で理解できるという即時共感性を持ち、それ故に情報の拡散可能性を持ちます。このことから、一見すると文化の発展に寄与するようにも捉えられます。

しかしながら、先述の通り、多くのWebサイトの運営はサイトのアクセス数によって収益が発生するWeb広告に依存していることから、いくらそのWebサイトのスクリーンショットがTwitter上で拡散されても、(画像内出所明示がされていても引用元のWebサイトへの流入は限定的であるという前提に立った上で)サイト運営者の収入には大きく影響しません。

文化の発展のためには著作者に適切な対価が発生する必要がありますが、その発生を減少させる効果を持つ画像内出所明示は、文化の発展に寄与するものとは言い難いのではないかなと思います。

以上二点から私は、画像内出所明示には合理性があるとは言い難く、48条が規定する出所の明示方法として適切ではないと考えます。とはいえ、直接的な規定や判例がない以上なんとも言えませんね。

さて4月です。春から新たにスマホを持つようになったという中高生も増えてくる時期かと思います。正しい情報倫理を我々がきちんと持って、手本となれるようなSNS文化を浸透させていきたいものですね。



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